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飯田橋って?
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  • 飯田橋の歴史(縄文時代〜 )
  • 飯田橋の歴史(明治後期〜 )
飯田橋の歴史(縄文時代〜)
縄文時代の飯田橋(紀元前2500年頃)
むかしむかし、飯田橋は、台地の下に広がる海の入江にありました。
海をへだてた向岸には小高い台地(神田山)が見えます。人々は、台地で草木を焼き、畑のようなものを作り、いもを植え、後には陸稲も作りました。海岸では、牡蛎をとり、海では魚や貝をとりました。
家康入城 1590年(天正18年)
芦が一面に生える沼地に、平川が流れ、田や畑があります。
平川の上流には小石川大沼があります。
徳川家康は、関東平野の中央に位置し周りには川が流れていて、防御には最適、海に面して港を作りに好都合と、江戸の小さい田舎のお城を居城にしました。
家康は、城を出て土地の事情を尋ねた農民の名前が、飯田喜平衛というので、このあたりの土地を飯田町と名付けました。
江戸の終わり 1863年(文久3年)
江戸時代の飯田町は、田安御門、牛込御門、小石川御門にかこまれ、そこには比較的上級身分の旗本屋敷がありました。
また、商家も立ち並び、武家相手の商売でにぎわわっていました。
また、当時の人から台所町と呼ばれて、江戸城の料理を作る人々が住んでいた所もありました。
江戸時代も末期になると、尊王攘夷で江戸幕府に対抗する人達に対して、逆に幕府は浪士や町民、農民を集めて浪士隊をつくり、街の警備にあたらせました。それが、後に新微組となり、その詰所が飯田町にありました。
明治のはじめ 1872(明治5年)
江戸時代に旗本の町だった飯田町は、旗本の大半が駿府に帰ったあとは、さびれるばかりでした。
旗本屋敷は新政府によって取り壊され、雑草が生い茂り、乞食が住み荒れ野のようでした。
新政府は、この空地(明地)に桑や茶を栽培させる政策をとりました。しかし、栽培する人は素人ばかりで枯らせる事が多く、明治5年にはこの政策を中止しました。
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